城所弘光の世界 
      

   
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     2013年09月  ----------  Vol.1 -----------
 
------ Vol.1------ 2013年9月

山梨県南アルプス市の櫛形山中腹に薪の窯が、2基居座っている。
昨年、25年ぶりに大窯を補修し、今秋、ようやく焼く準備が整った。
500束の赤松が必要なので、そうたやすく焼くことはできない。
だからなのか、火が入った瞬間は、いつも感無量になる。


 そういえば、この前の十五夜の晩に見た
中秋の名月にも感無量になった

近頃、年のせいか?
涙もろくなっているのかもしれない


もっとも
そんな、自分の姿をまぎらわすために
酒はかかせないのだが…



------ Vol.2------ 2013年10月

山梨県の山里に移住してから、丸23年の歳月が流れようとしている。
移住した年に小学校に入学した娘のランドセル姿は、丁度今頃の季節になると
たわわに実った稲穂の影に隠れて見えなかったが、
その娘も三十路の一歩手前まできていることになる。



 思えば子供たちの成長を横目で見ながら
生まれ故郷の神奈川県厚木市にある
陶芸教室に毎週通い続けてきたのである。
厚木の生徒の皆様方とも、苦楽を共にする
同志のようなお付き合いを続けさせていただいているように思う。



有難いことだ。
まだ、山梨と神奈川の往復が嫌になるわけにはいかない。


------ Vol.3------ 2013年11月


『見わたせば 花も紅葉もなかりけり
浦のとまやの秋の夕暮』
定 家

秋も深くなってくると
櫛形山(くしがたやま)の景色も
急に寂しくなる。

冷たく澄んだ空気のなか
落葉を踏みしめながら、

窯焚きの準備をすすめる。

やがて火が入って煙突からけむりが
あがる頃になると
真暗闇に浮かぶ裸電球を頼りに
薪割をする者たちが写し出される。
なかには酔いつぶれて眠っている者もいる。
昼も夜もない窯焚きは
独特の雰囲気をかもし出しながら
終えんを迎えていくのである。



『枯枝に 烏(からす)のとまりたるや 秋の暮』
芭蕉


------ Vol.4------ 2013年12月


ついこの間
櫛形山(くしがたやま)に初雪が積もった。
窯を焚いたのはその前だったので
別段不都合はなかったが
海抜900m超での窯焚きは
案の定
厳しい寒さのなかでの作業となった。



毎回、お神酒と塩で窯を清めてから火入れをするのだが
おかげ様で今回も無事焼き上げることができた。

きっと「神のみえざる手」があちらこちらから伸びてきて手助けをしてくれているに相違ないのであります。
とどのつまり
ぎりぎりの戦いの決着(火止め)も
実は
常に神様が付けているということになるのであります。

くる年が皆さまにとって良い年になりますように。


------ Vol.5------ 2014年1月

新年を迎え
村の鎮守の森で、初日の出を受けながら
御祓いをして頂いた。
一瞬の静寂。
やがて、普段通りの日常が時を刻み始めるのは仕方がないことだ。
無常観を呑み込んで
確かに始まった一歩をかみ締める。
既に、背後から昇った初日は
遠くに見える山並みを駆け上がっていた。
やけにまぶしい朝日が
あらゆる物に長い影を付けているのが印象的な元旦の朝だった。




『花をのみ 待つらむ人に山里の
   雪間の草の春を見せばや』

             藤原 家隆

今年も毎月投稿しようと思っておりますので
宜しくお願いいたします。


------ Vol.6------ 2014年2月

年が明けてまもなくして、
1人の人物が亡くなられた。
彼は、たしか定年を迎える頃から厚木の陶芸教室に
通い始められたので、かれこれ10年以上の付き合いになる。
とにかく、オシャレな人だった。
そして、しっかりとしたポリシーを身に付けている人だった。
彼の確かな美意識に裏付けされた作意は、陶芸作品にも着実に投影されていたし、まだまだ作りたい作品はいっぱいあったと思う。

今は、ただただ御冥福をお祈りするばかりであります。



そういえば、庭で丹精込めて育てられていたバラの花は
今年はもう教室には届かないということになる。

誠に寂しい限りであります。




------ Vol.7------ 2014年3月

2月に入ってから2週連続で大雪が降った。
2回目の雪は甲府で1mを超える記録的な積雪となった大雪にあまり馴染のない地域なので、カーポートや農業ハウス等が数多く倒壊し、交通機関も長時間マヒ状態が続いた。
たまたま週末にかけての大雪だったので、厚木の陶芸教室にいた私は、しばらく山梨に帰ることができずにいた。

櫛形山の窯場の屋根(スヤ)が倒壊していないかとても心配だったが
お手上げの状態となり、歯がゆい思いで雪融を待った。


思わず涙が出そうになった。
ソチでの冬季オリンピックで選手同志がハグしている姿に感動お覚えたが
私も大雪に耐えたスヤの健闘をたたえてハグしてあげたくなった。
もっとも相手が大きすぎてハグできないので、心の内で「ありがとう」とつぶやくしかなかった。

まだ、3月いっぱいは大雪が降る可能性が残っている。




------ Vol.8------ 2014年4月

 丁度、3月いっぱいで窯場の雪がすっかり消えた。
いよいよ窯場にも春の到来である。
記録的な大雪の後だけに、何だか格別の思いに見舞われた。
そしてその思いは、即、私を活動的にさせたようである。1日でも早く、窯焚きがしたくなり、早速、薪割りを始めたのである。
大窯を焚くには最低でも500束は薪を用意しておかなければならない。それこそ息子と2人で、時間の許す限り薪を割り続けている。

 窯焚きも5月の末に決まった。教室の生徒の皆様方の協力を得ながらの窯焚きとなる。
今まで大窯の方は自分専用の窯だったが、今回だけ生徒さんの作品を中心に焼くことにした。
それもこれも、2m近く積もった大雪に耐えてくれた、窯場の屋根を眺めながら決断したのであった。
 思えば私の半生は大窯を中心に動かされ、
生かされてきたことを実感した。その思いを生徒の皆様方にも伝えておきたくなったのかもしれない。

I do not know tomorrow,
  but I wil plant the flower today.



      ------ Vol.9------ 2014年9月

 25年前に山梨に移住して、まだ右も左も周りの様子が伺い知れなかった頃に、最初に知り合った友人が、秋風の吹き始めた9月1日の日になくなってしまった。彼は私より10歳も年上の先輩だったが、子供たちが同年齢ということもあって、妙に気が合って、何かというと彼に相談事を持ちかけていた。部品の加工を生業(なりわい)にしている技術屋さんだけに山の窯場で必要な道具は、全て使い易いように加工してくれていた。

私と出会ってから始めた陶芸に関しても、本物志向を貫き美の的を射ていたので、私が口を挟む余地もなく、むしろ、参考にさせてもらうことの方が多かったように思う。

 そして、何よりも彼との思いでにかかせないのは酒である。ひと仕事終われば、必ず酒を飲み交わしていた。その内に、暇さえあれば呑み歩くようになっていた。
梯子酒をしながら、街の様子を教えてくれたのも彼であった。5、6年前に仕事を廃業して、身体が思うように動かなくなってからも決して弱音を吐かず、気丈に振舞おうとするする姿は、ひと筋の道を歩き続けて彼の真骨頂であった。とうとう、最後まで酒を手放すこともなかったが、その心情は察するに余りあるので、今はただ、安らかに眠って欲いと願うばかりである。

やはり、「さよなら」だけが人生なのか。


 ------ Vol.11------ 2015年 1月

 新年あけまして おめでとうございます。
今回は、今年還暦という大きな節目を迎える自分自身の心情を書かせていただきます。だれの人生にも、ひとつやふたつ大きな過渡期があると思うが、私の場合はハタチ前後の時が、1回目の大きな節目だったように思う。
とにかく大人になるのが恐くて、何事にも内向きになっていたのだ。それでも、大人社会は目の前に迫っていた。
私は苦しまぎれに卒業旅行を計画した。そこで偶然が重なり、信楽の古い焼物と運命的な出会いを果たしたのである。私はその古壺の肌に吸い込まれて、しばらく動かなかったと思う。今、振り返ってみると、その瞬間から、私の焼物人生は始まっていたのだ。そしていつのまにか還暦である。

現実の厳しさを考えると、大きな節目にできる状況ではないが、気持ちの上では、うっかり通り過ぎてはならないと思っている。重く受け止める事によって、現実社会からの脱皮を模索していかなければならない。ひとりの人間として、子供を育て、両親を見送ってしまった今、私はハタチの頃に戻って還暦の意味を考えている。
あの時と違うのは、かたわらに「焼物」という頼もしい友がいることだ。
『大清水窯』の灯(ともしび)はまだ、消えそうで消えておりませんぞ。


今年もよろしくお願い宜しくお願い申し上げます。

 ------ Vol.13------ 2015年 11月

 どうやら手編みらしいセーターを着た年輩の紳士が、呂久呂屋の暖簾をくぐって入ってきたのは19年前であった。
今でも鮮明に覚えている。
生徒達の作品展を見て陶芸教室に入会をしたいということであった。定年を迎えたばかりのその紳士は、老後に向けて何か打ち込める趣味をさがしている風であった。
呂久呂屋の水が合ったようで、ついこの間まで通い続けて頂いていた。ところが、病に倒れ、突然10月31日に帰らぬ人になってしまわれた。享年79歳ということになる。今月末から始まる作品展に出品する作品も預かっていたので、何とも信じ難くつらい気持ちになってしまった。

その紳士の作品は誠実な人柄がそのまま反映されていて、健全で実直な作風であった。
まめにに展覧会にも足を運んでおられたので美意識の向上にも余念がなかった。
 今回の作品展には遺作を展示させて頂くことになっている。是非、御高覧賜り、人柄を偲んでもらえたらと思っています。
後で知ったことだが、初めて出会った時に来ていたセーターは、やはり手編みであった。しかも奥様は編み物の先生だったのである。
呂久呂屋の長老として、御意見番でもいてくれたのだが、苦言を呈する時には必ず手編みのセーターを着ていたように思う。だから他の陶芸仲間はそのぬくもりを感じながら、意見を素直に聞くことができたのである。


心より御冥福をお祈り申し上げます。

 ------ Vol.14------ 2015年 12月

 櫛形山の稜線が窓越しにはっきり見える。
冬の陽射しは前面に幾重にもそり出している。尾根に陰影をつけ、山の奥深さを写し出している。
麓の方に目をやると、中部横断自動車道が南北に一直線に伸びている。いずれ東名高速と関越自動車道を繋ぐ高速道路である。櫛形山の向こうには南アルプス鳳凰三山が雪をかぶった白い頭をのぞかせている。
視線を戻し櫛形山をよく眺めると、中腹に電波塔がポツンと立っている。
「あのチョット下の右手だな」。私は窯場の位置を確認することができた。
 12月6日の朝、交差点で立番中に意識が朦朧となり救急搬送された。いったん帰宅するも具合悪く再度病院へ。胃潰瘍で出血。七転八倒。吐血。胃カメラで止血。痛み取れるも4日間ICU。
 胃は修復されつつも、ついでの検査で直腸に癌が見つかる。22日にオペ予定。
お正月は病院で迎えることになりそうだ。

 それでも何だか気分はスッキリしている。やっと休息の時が来た。
何も考えずに自分とだけ向き合ってみようと思う。

 病院の窓越しに一番近くに見えるのは、小学校の校庭である。
子供達が赤白帽をかぶってボール蹴りをしたりしている。校庭の廻りの桜の木は、さすがに
まだ芽吹いている様子はないようである。

------ Vol.15------ 2016年 1月

 新年あけましておめでとうございます。
還暦の年も半分が過ぎ丁度折り返し地点で倒れてしまいました。神のお告げと思い、後の半年はとりあえず充電期間に充てるつもりでおります。そこで一人旅をした時を思い出しながら、紀行文のような文を書いてみようと思います。

 確か4年前の暮れであった。その年の春に東北を中心に大きな地震があり、私はとても屈託した気持ちになっており気分転換したくなり、電車の一人旅をこころみたのである。
 日帰りしか時間が取れなかったので、甲府駅から小淵沢駅で小海線に乗り換えて、小諸駅迄行くことにした。学生時代以来の本当に久し振りの一人旅であった。
 日帰りなので荷物はなく、文庫本を一冊、半オーバーのポケットに忍ばせているだけであった。小淵沢駅で電車の待ち時間を利用して、駅前をぶらっとした後、小海線に乗り換えた。
 どこかの駅で降りて、昼食がてら駅周辺を散策しようと思いながらも気儘な旅だったので「清里駅」や「野辺山駅」を過ぎて、窓辺の風景を眺めている内に「小海駅」で下車することにした。 千曲川が真近にみえることができたのと、信州蕎麦の看板が目に付いたからである。
次の電車が来るのが1時間半後だったので、駅周辺の散策を試みたが、駅を出た途端に右肩下がりの道が1本あるだけで、その坂を下っていくと千曲川を渡る橋に繋がっているという具合であった。
道の両側に老舗らしい蕎麦屋が向かい合っていたが、私は駅から少し下がった小さいお店に入った。信州蕎麦は緑かかっていた新そばで、その歯ごたえとと蕎麦の風味に舌鼓を打った。瓶ビールを一本飲んだせいもあるが、そこの女将さんと話し込み、周辺の事情をいろいろと聞くことができた。
最後には蕎麦の味を絶賛することを忘れずにその店を出た。
「小諸駅」に降り立つのは学生時代に来て以来二度目の事である。小諸城址まで歩いて、藤村の「千曲川旅情」の石碑などを見て、ホテル内の温泉に入らせていただく事にした。 確か7階あたりに風呂が付いていたので、眺めは良いし、千曲川が一望に見えて、ゆったり、ゆっくりと温泉気分に浸ることができた。
 私は帰りの電車のなかでつくづくと「いい骨休めになったな。」と思った。
年も暮れかかった歳末26日の事であった。ちなみにその時の文庫本は、深沢七郎の『楢山節考』であった。あらためてじっくりと読ませていただいたが、やはり稀にみる傑作であることを確認することができた。

 今は上(かみ)さんとぶらり旅に出てみたい気分になっている。
 本年も相変わらず宜しくお願い申し上げます。

------ Vol.16------ 2016年 12月

 早いもので病を得てから半年の月日が流れた。
 丁度1ヵ月間入院して、今年の始めに退院してからは、薬を飲みながら治療を続けている。生活習慣は一変し、それこそ酒もタバコものんでいない。酒を飲んだ勢いで眠ることが多かったので寝付が悪いのがたまにキズだが、今は規則正しい生活が必要なのである。無理をすれば、生活のリズムが狂い体調を崩してしまうだろう。 おかげですこし体力が付いてきたのでぼちぼち仕事を始めているのだが、あらためて自分の仕事に取り組んでみると、随分と体力の必要な作業が多いことに気が付いた。
例えば、土練りや、薪作り、窯焚き等、どの作業もとてもハードなのである。それに加えて25年間毎週通い続けている厚木と半々の生活もしんどくなってきた。車の運転に加え、外泊、外食を続けるのが、病気をしたことで負担になってきたのである。
やはり、家庭料理にかなうものはない。妻や息子のサポートがなければ通い続けていくことはできないだろう。そうしてみると還暦の年に倒れたのは、単なる偶然ではないようだ。私の人生の積み重ねの中で生まれてきた必然といえるかもしれない。 このタイミングは私を心身共にリサイクルし、環境的に世代交代をすすめて、より次の作品のために集中力を高めていくことになるだろう。
 大切なのは、常に次の作品を生み出すための準備とアイデアだ。神と自然と家族と友人に感謝して余生を我が作品に捧げていきたい。


------ Vol.17------ 2016年 12月

 今年はとうとう自分の作品を1点も制作しなかった。
丁度1年前に倒れて以来、いよいよ自分の作品作りに打ち込む気持ちが強くなったのだが、病気の後始末と窯焚きの準備に追われている内に、アッという間に1年が立ってしまった。
振り返れば今年は大小合せて3回窯に火を入れているにもかかわらず、自分の作品はというと、焼き直しの作品が何点か入っただけであった。
とにもかくにも、自分の作品に取りかかるためには、それだけ準備がかかるという事だと思う。
身心共に充実しなければ、どうにもならないのである。造りたい気持ちをパワーに変えて、十分に体力をつけて、来春には自分の作品に着手できることを願っている。 さいわい真冬の寒さは集中力を高め、作品作りにには絶好の季節でもあるので、私は大好きなのだ。この機会を逃してしまったら、また、アッという間に1年がすぎてしまうことだろう。年末の検査結果次第とはいえ、決して体調は悪くないので、必ず、大窯の火入れに漕ぎつけてみせる。
そして窯場の根雪を溶かすと同時に、
作品達に光沢と魂を入れる窯焚きに臨んでいくのである。

きっと、今まで以上に喜びと感謝の気持ちに満ちた窯焚きになることだろう。

来年もよろしくお願いいたします。


------ Vol.19------ 2017年 8月

 縁あって、櫛形山の中腹に窯場を設けてから30年余りの月日が流れたことになる。
その間、数え切れぬほどの窯焚きを繰り返し、窯と向き合い火と向き合ってきた。
毎回自分なりの思惑を持って窯を焚き始めているはずなのに、私の発想と行動はいつのまにか五感を頼りにするようになり、「自然」というものに従順になっている自分に気付くのであった。
そうなると自然に囲まれた窯場はとても居心地の良い場所となり、まるで私もそれらの自然に溶け込んでしまったかのように風に吹かれ、木漏れ日を浴びながら火の番をしているという具合になるのである。


 焼物の作品のことを、よく「土と炎の芸術」というが、まさしく自然の力をたっぷりと借りて、その恩恵を受けて産声を上げる作品達は、どれも皆神々しいのである。 先ずはそこを味わうべきであろう。特に焼締めの作品は、各々個性を持って生まれてくるので、そこに潜む美を見逃してはならない。
 理屈は二の次にして、いかに自分の感性を発揮できるかどうかにかかっているのである。
『とにかく良い』」が作品に対する最大のホメ言葉だろう。

 話は横道に逸れたようだが、人が自然に還ることはとても難しいことだ。
私はこれからもその瞬間を目指して、櫛形山で修業(窯焚き)を重ねていきたいと願っている。

 ------ Vol.22------ 2019年 1月


 平成最後の年が明けてひと月が過ぎた。
今のところ櫛形山の雪もたいしたこともなく、うっすらと白くなった程度である。それにしても冬の寒さは相変わらずやってくるので、厚木の工房では、昔ながらのダルマストーブで薪を燃やし暖をとっている。
 薪ストーブ独特の何ともいえぬ心地良い暖かさは、生徒の皆様方にも評判が悪くない。教室を始めてからずっと薪ストーブを使用しているのだが、それにはもうひとつの重要な訳がある。
 主に雑木や果樹の木を燃やして、その灰を釉薬の溶剤として使用しているのである。約5ケ月間程薪ストーブを燃やすことによって1年分の灰が確保できる。灰汁を抜き、濾してから乾粉にしストックしている。灰合わせの釉薬にはかかせない原料なので、とても助かっている。暖をとりながら天然の灰がとれる薪ストーブの存在は、呂久呂屋に必要不可欠な一挙両得のスグレモノなのでした。
 しかしながら、その薪の手配も簡単ではない。山焼き用の赤松を準備しながら、薪ストーブ用の雑木の手配もしなければならない。そのためにはチェーンソーと薪割機とトラックはどうしても必要な必須アイテムなのである。 今日も私はストーブ用のスモモの木をトラックいっぱい積んで、厚木行きの準備を済ませたばかりである。それにしても、薪にする木の調達に関しては、あちらこちらから声を掛けて頂き有り難いことだと感謝申し上げております。
 最後に焼物を焼くには、轆轤をひくのと同じ位ノコギリを挽く必要がある。 これが私の仕事への実感です。

------ Vol.23------ 2019年 5月

  4月13日(土)、14日(日)と1泊2泊で恒例の焼物探訪バス旅行に、教室の皆様方と出かけてきました。平成最後の旅行は初日に岐阜県多治見の陶器まつりを中心に、加藤幸兵衛の窯を訪ね、2日目は瀬戸の金物屋で小道具を仕入れてから、陶磁資料館を観て、午後一番で赤津焼加藤作助窯を見学してまいりました。
行く先々では山桜とか、枝垂れ桜が見頃であり、天気にも恵まれ、皆さん満足気の様子でした。
 美濃地方は古くから陶磁器の原料の宝庫であり、あちらこちらかに採掘の跡が見受けられます。1200年以上の歴史があり、日本6古窯のひとつとして初めて釉薬を掛けて焼物を焼き始めたとのことです。
 2日目に訪ねた加藤作助の6代目となる加藤啓司様には歓待して頂き、粘土の水簸場や作陶場などくまなく案内、説明をしていただきました。感謝すると同時にたいへん勉強になり、皆が感謝していたようです。

 何といっても焼物探訪旅行の醍醐味は窯場の風景、雰囲気を味わえることと、作家、作品との新鮮な出会いにあると思います。今回もそんな企画を綿密に組んで頂いた
『友の会』スタッフの方々に厚く御礼申し上げます。
また2年後位にこんな旅行の機会が得られることを期待しております。

------ Vol.25------  令和2年4月

  NHKの朝の連続ドラマ「スカーレット」が終わってしまった。滋賀県の信楽を舞台に、女流陶芸家を主人公にした物語であった。モデルになったのは神山清子(こうやまきよこ)さんである。
 私が信楽で修業していた昭和50年代頃に、一度だけ神山さんの窯場を訪ねたことがあった。たしか、京都から来た美術家に誘われて同行したのだが、運悪く雨戸がしまっていたので留守だと思いきや、同行した白髪の老美術家は、おもむろに雨戸をたたき始めたのであった。すると内から声がして、寝起きの神山さんが姿をあらわしたのである。今しがた窯が焚き上がり休んでいたとのことであった。住まいの向かい奥にある窖窯からは熱気が漂っていたように記憶している。朝ドラで神山さんを紹介してくれたおかげで、私にとっては修業時代の貴重な想い出のひとコマとなった。


  ところで話はガラッと変わりますが、世の中には新型コロナウィルスが蔓延し始め、あっという間に地球全体を汚染してしまった。 それこそ人間社会がいきなり危機的状況を迎えてしまったのである。マスコミの冷静な報道とそれぞれの分野の方々の適切なアドバイスを頼りに、人類の叡智と互助の精神で乗り切っていくしかないと思う。
たとえすべての大陸が汚染されても、青い空と碧い海は変わらないのである。そして、道端の野の花は今日も健気に花を咲かせている。美しい地球を感じながら、「考える一本の葦」は次の一手を打っていくのである。 人間社会に生きている以上、何とか生き延びる方法を共有し、自然と共存していきたいと願っています。

      ------ Vol.27-----  令和3年1月

 
 令和3年のお正月を迎え、新年早々に長女が入籍することになった。何だか安心したような
ちょっと淋しいような不思議な気分の正月であった。





 片一方で、世の中には新型コロナが、姿をちょっと変えたりしながら、感染を拡大し続けているようだ。子供達の時代への影響が心配である。「アマビエ」のような疫病を撤退させる英雄が現れることを期待している。誰の所為でもないと思う。生き物が抱えるひとつの自然現象が発生しているのである。人に感染する場合は、いかに予防していくか知恵を絞り、それを皆で実践していくしかないんだろう。
いずれにしても、人類の真価が問われているのは確かだ。命の力を始めとして、愛、教育、文化、芸術等人間が育んできたあらゆる力が結集することで何とかこの危機を乗り越えて希望の光りを見出して頂きたいものである。

そうは言っても、個人的には65歳になって高齢者の仲間入りをしたことを契機に、俗世を離れて山に籠り、土遊びと火遊びに明け暮れる毎日を想像しながら生活していることを告白しておきます。
まだ、当分先になりそうですけれどね・・・

あら何ともなや 
きのふは過ぎて
ふくと汁     
              芭蕉
------ Vol.28-----  令和3年8月
 今年も梅雨の真っ最中に穴窯をたくことができた。
コロナ禍のなか、梨の木を中心に燃やすという、ちょっとややこしい窯焚きであった。
それでも、赤松の火力の助けを借りながら何とか焼き上げることができたのである。
丸3日間に及ぶ窯焚きは勿論ひとりでは焚けないので、手伝って頂いたスタッフの方々にはいつも感謝している。

それこそ、1本1本の割り木の火力(命)を大切にして、薪をくべることに集中してくれている。そこには、阿吽の呼吸が生まれていて、交代で焚いているにもかかわらず、 窯の地熱は少しずつ上昇を続けていくのであった。だれもが五感を頼りに動き始めているようにみえる。自然の世界にどっぷり浸かって同化していまっているようだ。 やがて、熱と光に圧倒された時が過ぎて窯の火は必然的に落とされていくのである。 すると、窯焚きに参加した方々は、だれもが次の窯焚きを見据えて粛々と現実の世界へと戻っていくのであった。
 秋深くにまた窯焚きをするつもりで薪の準備を進めているが、樹齢50年以上の太い赤松を割るのに手こずっている。 お天気にもよるが、とりあえず、小さい窯の方だけを焼いて、大きい方の窯は来春になるかもしれない。来年5月の作品展に向けて、多くの方に体験、参加して頂き、 コロナを乗り切る切っ掛けにでもなればと思い、薪作りに励む昨今であります。
 ところで、世間では新型コロナウィルスの感染拡大が収まらない。世界中で毎日たくさんのヒトが亡くなっている。ヒトは大自然の恩恵を受けて生かされている反面、 時には自然の驚異に愕かされ、それでも必死に生きてきたのである。この先、まさか人類が自然淘汰されてしまうことはないと思うが、子供達の笑顔を救いの神として、 「自然」とよき友人関係を築いていって欲しいと願うばかりである。
 
           
     ------ Vol.29-----  令和4年12月
大清水窯2022年12月近影

いたずらに歳を重ねてきて、近頃の自分はというと、妙に涙もろくなってきているようです。
些細な出来事でも感動を覚え涙がうかんでくるし、テレビでのもらい泣きは日常茶飯時という有り様です。大リーグやサッカーのワールドカップといったスポーツでの感動も涙なしでは観ることができません そういえば孫たちが無事に生れてきた時も自然に涙が溢れてきました。
きっと歳をとってくると涙腺が緩んでくんるんだと勝手に解釈している昨今です。
また、人並みに断捨離にも興味を持ち始めていて、何でもかんでも整理整頓すうよるな気持ちで対処するようになっています。なるべく捨てられるものは捨てて、身軽になりたいのであります。そして、好きな焼き物作りには没頭する。手の動くままに造っては壊し、造っては壊し、気に入ったものを焼き締める。そして、自己満足の世界に浸りたいのであります。食事の方は毎日1合の米があればなんとかなると思っています。さて、年寄りの理想郷はいつ実現できるのでしょうか。現実には厳しい面も多々ありますが、少しづつ準備をすすめている今日この頃です。
 窯場にはいよいよ冬将軍が忍び寄ってまいりました。
よいお年をお迎えくださいませ。

令和4年暮れ 
           






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