|
------ Vol.1------ 2013年9月
山梨県南アルプス市の櫛形山中腹に薪の窯が、2基居座っている。
昨年、25年ぶりに大窯を補修し、今秋、ようやく焼く準備が整った。
500束の赤松が必要なので、そうたやすく焼くことはできない。
だからなのか、火が入った瞬間は、いつも感無量になる。
そういえば、この前の十五夜の晩に見た
中秋の名月にも感無量になった
近頃、年のせいか?
涙もろくなっているのかもしれない
もっとも
そんな、自分の姿をまぎらわすために
酒はかかせないのだが…
|
------ Vol.2------ 2013年10月
山梨県の山里に移住してから、丸23年の歳月が流れようとしている。
移住した年に小学校に入学した娘のランドセル姿は、丁度今頃の季節になると
たわわに実った稲穂の影に隠れて見えなかったが、
その娘も三十路の一歩手前まできていることになる。
思えば子供たちの成長を横目で見ながら
生まれ故郷の神奈川県厚木市にある
陶芸教室に毎週通い続けてきたのである。
厚木の生徒の皆様方とも、苦楽を共にする
同志のようなお付き合いを続けさせていただいているように思う。
有難いことだ。
まだ、山梨と神奈川の往復が嫌になるわけにはいかない。
|
------ Vol.3------ 2013年11月
『見わたせば 花も紅葉もなかりけり
浦のとまやの秋の夕暮』
定 家
秋も深くなってくると
櫛形山(くしがたやま)の景色も
急に寂しくなる。
冷たく澄んだ空気のなか
落葉を踏みしめながら、
窯焚きの準備をすすめる。
やがて火が入って煙突からけむりが あがる頃になると
真暗闇に浮かぶ裸電球を頼りに
薪割をする者たちが写し出される。
なかには酔いつぶれて眠っている者もいる。
昼も夜もない窯焚きは
独特の雰囲気をかもし出しながら
終えんを迎えていくのである。
『枯枝に 烏(からす)のとまりたるや 秋の暮』
芭蕉
|
------ Vol.4------ 2013年12月
ついこの間
櫛形山(くしがたやま)に初雪が積もった。
窯を焚いたのはその前だったので
別段不都合はなかったが
海抜900m超での窯焚きは
案の定
厳しい寒さのなかでの作業となった。
毎回、お神酒と塩で窯を清めてから火入れをするのだが
おかげ様で今回も無事焼き上げることができた。
きっと「神のみえざる手」があちらこちらから伸びてきて手助けをしてくれているに相違ないのであります。
とどのつまり
ぎりぎりの戦いの決着(火止め)も
実は
常に神様が付けているということになるのであります。
くる年が皆さまにとって良い年になりますように。
|
------ Vol.5------ 2014年1月
新年を迎え
村の鎮守の森で、初日の出を受けながら
御祓いをして頂いた。
一瞬の静寂。
やがて、普段通りの日常が時を刻み始めるのは仕方がないことだ。
無常観を呑み込んで
確かに始まった一歩をかみ締める。
既に、背後から昇った初日は
遠くに見える山並みを駆け上がっていた。
やけにまぶしい朝日が
あらゆる物に長い影を付けているのが印象的な元旦の朝だった。
『花をのみ 待つらむ人に山里の
雪間の草の春を見せばや』
藤原 家隆
今年も毎月投稿しようと思っておりますので
宜しくお願いいたします。
|
------ Vol.6------ 2014年2月
年が明けてまもなくして、
1人の人物が亡くなられた。
彼は、たしか定年を迎える頃から厚木の陶芸教室に
通い始められたので、かれこれ10年以上の付き合いになる。
とにかく、オシャレな人だった。
そして、しっかりとしたポリシーを身に付けている人だった。
彼の確かな美意識に裏付けされた作意は、陶芸作品にも着実に投影されていたし、まだまだ作りたい作品はいっぱいあったと思う。
今は、ただただ御冥福をお祈りするばかりであります。
そういえば、庭で丹精込めて育てられていたバラの花は
今年はもう教室には届かないということになる。
誠に寂しい限りであります。
|
------ Vol.7------ 2014年3月
2月に入ってから2週連続で大雪が降った。
2回目の雪は甲府で1mを超える記録的な積雪となった大雪にあまり馴染のない地域なので、カーポートや農業ハウス等が数多く倒壊し、交通機関も長時間マヒ状態が続いた。
たまたま週末にかけての大雪だったので、厚木の陶芸教室にいた私は、しばらく山梨に帰ることができずにいた。
櫛形山の窯場の屋根(スヤ)が倒壊していないかとても心配だったが
お手上げの状態となり、歯がゆい思いで雪融を待った。
思わず涙が出そうになった。
ソチでの冬季オリンピックで選手同志がハグしている姿に感動お覚えたが
私も大雪に耐えたスヤの健闘をたたえてハグしてあげたくなった。
もっとも相手が大きすぎてハグできないので、心の内で「ありがとう」とつぶやくしかなかった。
まだ、3月いっぱいは大雪が降る可能性が残っている。
|
------ Vol.8------ 2014年4月
丁度、3月いっぱいで窯場の雪がすっかり消えた。
いよいよ窯場にも春の到来である。
記録的な大雪の後だけに、何だか格別の思いに見舞われた。
そしてその思いは、即、私を活動的にさせたようである。1日でも早く、窯焚きがしたくなり、早速、薪割りを始めたのである。
大窯を焚くには最低でも500束は薪を用意しておかなければならない。それこそ息子と2人で、時間の許す限り薪を割り続けている。
窯焚きも5月の末に決まった。教室の生徒の皆様方の協力を得ながらの窯焚きとなる。
今まで大窯の方は自分専用の窯だったが、今回だけ生徒さんの作品を中心に焼くことにした。
それもこれも、2m近く積もった大雪に耐えてくれた、窯場の屋根を眺めながら決断したのであった。
思えば私の半生は大窯を中心に動かされ、
生かされてきたことを実感した。その思いを生徒の皆様方にも伝えておきたくなったのかもしれない。
I do not know tomorrow,
but I wil plant the flower today.
|
------ Vol.9------ 2014年9月
25年前に山梨に移住して、まだ右も左も周りの様子が伺い知れなかった頃に、最初に知り合った友人が、秋風の吹き始めた9月1日の日になくなってしまった。彼は私より10歳も年上の先輩だったが、子供たちが同年齢ということもあって、妙に気が合って、何かというと彼に相談事を持ちかけていた。部品の加工を生業(なりわい)にしている技術屋さんだけに山の窯場で必要な道具は、全て使い易いように加工してくれていた。
私と出会ってから始めた陶芸に関しても、本物志向を貫き美の的を射ていたので、私が口を挟む余地もなく、むしろ、参考にさせてもらうことの方が多かったように思う。
そして、何よりも彼との思いでにかかせないのは酒である。ひと仕事終われば、必ず酒を飲み交わしていた。その内に、暇さえあれば呑み歩くようになっていた。
梯子酒をしながら、街の様子を教えてくれたのも彼であった。5、6年前に仕事を廃業して、身体が思うように動かなくなってからも決して弱音を吐かず、気丈に振舞おうとするする姿は、ひと筋の道を歩き続けて彼の真骨頂であった。とうとう、最後まで酒を手放すこともなかったが、その心情は察するに余りあるので、今はただ、安らかに眠って欲いと願うばかりである。
やはり、「さよなら」だけが人生なのか。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
------ Vol.19------ 2017年 8月
縁あって、櫛形山の中腹に窯場を設けてから30年余りの月日が流れたことになる。
その間、数え切れぬほどの窯焚きを繰り返し、窯と向き合い火と向き合ってきた。
毎回自分なりの思惑を持って窯を焚き始めているはずなのに、私の発想と行動はいつのまにか五感を頼りにするようになり、「自然」というものに従順になっている自分に気付くのであった。
そうなると自然に囲まれた窯場はとても居心地の良い場所となり、まるで私もそれらの自然に溶け込んでしまったかのように風に吹かれ、木漏れ日を浴びながら火の番をしているという具合になるのである。
焼物の作品のことを、よく「土と炎の芸術」というが、まさしく自然の力をたっぷりと借りて、その恩恵を受けて産声を上げる作品達は、どれも皆神々しいのである。
先ずはそこを味わうべきであろう。特に焼締めの作品は、各々個性を持って生まれてくるので、そこに潜む美を見逃してはならない。
理屈は二の次にして、いかに自分の感性を発揮できるかどうかにかかっているのである。
『とにかく良い』」が作品に対する最大のホメ言葉だろう。
話は横道に逸れたようだが、人が自然に還ることはとても難しいことだ。 私はこれからもその瞬間を目指して、櫛形山で修業(窯焚き)を重ねていきたいと願っている。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
------ Vol.28----- 令和3年8月
今年も梅雨の真っ最中に穴窯をたくことができた。
コロナ禍のなか、梨の木を中心に燃やすという、ちょっとややこしい窯焚きであった。
それでも、赤松の火力の助けを借りながら何とか焼き上げることができたのである。
丸3日間に及ぶ窯焚きは勿論ひとりでは焚けないので、手伝って頂いたスタッフの方々にはいつも感謝している。
それこそ、1本1本の割り木の火力(命)を大切にして、薪をくべることに集中してくれている。そこには、阿吽の呼吸が生まれていて、交代で焚いているにもかかわらず、
窯の地熱は少しずつ上昇を続けていくのであった。だれもが五感を頼りに動き始めているようにみえる。自然の世界にどっぷり浸かって同化していまっているようだ。
やがて、熱と光に圧倒された時が過ぎて窯の火は必然的に落とされていくのである。
すると、窯焚きに参加した方々は、だれもが次の窯焚きを見据えて粛々と現実の世界へと戻っていくのであった。
秋深くにまた窯焚きをするつもりで薪の準備を進めているが、樹齢50年以上の太い赤松を割るのに手こずっている。 お天気にもよるが、とりあえず、小さい窯の方だけを焼いて、大きい方の窯は来春になるかもしれない。来年5月の作品展に向けて、多くの方に体験、参加して頂き、
コロナを乗り切る切っ掛けにでもなればと思い、薪作りに励む昨今であります。
ところで、世間では新型コロナウィルスの感染拡大が収まらない。世界中で毎日たくさんのヒトが亡くなっている。ヒトは大自然の恩恵を受けて生かされている反面、
時には自然の驚異に愕かされ、それでも必死に生きてきたのである。この先、まさか人類が自然淘汰されてしまうことはないと思うが、子供達の笑顔を救いの神として、
「自然」とよき友人関係を築いていって欲しいと願うばかりである。
|
------ Vol.29----- 令和4年12月
いたずらに歳を重ねてきて、近頃の自分はというと、妙に涙もろくなってきているようです。
些細な出来事でも感動を覚え涙がうかんでくるし、テレビでのもらい泣きは日常茶飯時という有り様です。大リーグやサッカーのワールドカップといったスポーツでの感動も涙なしでは観ることができません そういえば孫たちが無事に生れてきた時も自然に涙が溢れてきました。
きっと歳をとってくると涙腺が緩んでくんるんだと勝手に解釈している昨今です。
また、人並みに断捨離にも興味を持ち始めていて、何でもかんでも整理整頓すうよるな気持ちで対処するようになっています。なるべく捨てられるものは捨てて、身軽になりたいのであります。そして、好きな焼き物作りには没頭する。手の動くままに造っては壊し、造っては壊し、気に入ったものを焼き締める。そして、自己満足の世界に浸りたいのであります。食事の方は毎日1合の米があればなんとかなると思っています。さて、年寄りの理想郷はいつ実現できるのでしょうか。現実には厳しい面も多々ありますが、少しづつ準備をすすめている今日この頃です。
窯場にはいよいよ冬将軍が忍び寄ってまいりました。
よいお年をお迎えくださいませ。
令和4年暮れ
|
|
------ Vol.30----- 令和6年1月
全世界を巻き込んだコロナの風(疫病)が吹き荒れてからというもの、人々の仕事や生活は随分と様変わりしてまいりました。命を落とした方々も数えきれない位いるなかで、生き残った者達は、それなりに工夫をして命を繋いできたのであります。とにかく「自然」は少しでも不自然な行為をすれば、容赦なく人間に試練を与えてくるようです。その度に人間は反省を繰り返し、自然の脅威にひれ伏しながらも生き延びてきたのであります。感情を持つ動物として、喜びも哀しみも噛みしめて、感動しながら生きていくのが本来の人間の姿なのでしょう。一滴の涙の価値は何事にも変えがたいことを知るのであります。
つれづれなるままに、そんなことを思いながら、昨年の春より家庭菜園を始めました。
又、窯場で手付かずだった山小屋のリフォームにも取り組むはめになってしまいました。ひぐらし轆轤にのって焼き物造りを楽しむ日々は、どうやらもう少し先の話になりそうです。孫の顔をみるのが、唯一の楽しみであります。
令和6年が、皆様にとりまして良い年になることを祈っております。
よいお年をお迎えくださいませ。
令和5年暮れ
|